駒ヶ原について

敗戦を迎えた1945年、国内は復員者や引揚者にあふれ、十分な食べ物もなく、働き口も少ない状態でした。それを解消するために国の事業として全国的に始められたのが、荒れ地や山などを切り開いて畑に変える戦後開拓事業。この駒ヶ原、沖ノ原の両地区も開拓地です。

 

 

たけうち牧場がある駒ヶ原は、終戦後に満州から帰ってきた愛知県出身者が開拓した集落です。何もないところから一つ一つ手で石を除け、木の根を抜き、平地を拓き、家を建て、井戸を掘り、電気、水道も自分たちで引きました。

 

当時、23軒が入植し、キャベツや白菜、ヤマゴボウなどの野菜を作り、名古屋の市場へ出荷し、生計を立てていました。

ゼロからの生活は並み大抵のものではありませんでした。

 

やがて子供が生まれ人口が増えてくると分校(小学校)を建てました。中学校は徒歩で行きは1時間半の名倉中学校。帰りは上り坂を2時間。夏以外は朝夕は暗く、懐中電灯を持って山道を歩いたものです。

高冷地のため、夏には洋ランやイチゴ苗の「山あげ地」としても知られています。現在もシクラメンなどの花卉植物の生産、販売、新品種開発する園芸店など、植物を育てる場所としても活用されています。

 

現在は12軒の集落となってしまいましたが、道路の清掃などは住民全員が参加し、植樹を行うなどしています。

 

近年は、かつて分校があった跡地を活用した「丸太小屋プロジェクト」を立ち上げ、丸太小屋ログハウス2棟、ピザ窯、バーベキュー施設を様々な地域の方々と共に作り、駒ヶ原と強いつながりを持って通ってくれる方が増えました。

 

現在は、四世代目も誕生し、自分たちで拓いたこの地で「家族のような地域住民」と助け合いながら歴史を紡いでいます。  

 





終戦直後の昭和22年に、駒ヶ原、沖ノ原の両地区に入植した13人の語りを納めた書籍『山を拓(ひら)き ここに暮らしを造る~愛知県段戸山麓戦後開拓集落駒ヶ原・沖ノ原の聞き書き』